第三回 「中国留学の第一歩」
「留学」。この言葉に憧れる人は、多分後を絶たないでしょう。ご多分に漏れず、僕もその一人です。しかし、生活習慣と言葉の違う場所で暮らすというのは、普通の精神状態では出来ません。そんなことを思いつつ、留学時代のことを思い出しています。
外国で、数カ月以上暮らしたことのある人は経験があるかもしれませんが、まず、物事を始めるのにいかに言葉が重要かと言うことに気づくのです。日本にいるときは、何気なく使っている言葉や、ジェスチャーが別の国に行くとまったく通じない。当たり前と言えば当たり前です。例えば日本でいきなり外国人に、英語以外の言葉で喋りかけられて反応できる人がいったい何人いるでしょう。たまたま、その人がその言語を学習中とか、昔勉強したことがあるとか言うなら別でしょうけど。そんなことは極々稀でしょう。
日本人が日本で外国人と接するときに起こることが、今度は外国に行ったときに、逆の立場で自分の身に起こるのです。想像に難くないでしょう。僕は、大学時代行った中国で、そんな予備知識もないまま、ただ大学で専門としてやってるからと言うだけで、なめてかかっていたら、こっぴどい目に遭い、ましてや、訛、方言にも打ちのめされ、すっかり参ってしまったという苦い経験をしたのです。 それが前回お話しした、中国初体験だったのです。
しかし、ここが人間のおもしろいところで、二回目の、つまりこの留学の時に訪れた北京では、言葉での苦労は確かに大変だったけど、精神的には多少の余裕がありました。ま、もちろん大学時代からレベルが上がったことにもよるだろうし、おそらく二回目ということもあり、度胸と慣れが有ったのかもしれません。
ここで、僕が中国留学に行くことになったいきさつを簡単に書きたいと思います。大学を出てすぐに就職した会社は、中国とはとくに関係のない、金融業でした。そこでは毎日朝始発に乗って出勤し、夜終電に乗って帰宅するという、残業代もつかず、寮の朝食も食べられないと言う状態を一年も続けていたのです。 それでも、仕事がうまくいっていればまだ良かったのですが、私が就職したのはバブル崩壊のその年だったこともあり、うまくいくどころか深みにはまる一方でした。
そんな生活を続けている中で、どうしても中国語に対する思いが湧いてきて、中国語を使って仕事をしようと転職を考えたのです。しかし、バブル崩壊の真っ只中にあった当時の日本は、私のようなあまちゃんな若者はどこも受け入れてはくれませんでした。
しかし、このままではどうしようもないと思い、さらに安易な道を探すことになったのです。そう、それが中国留学です。今のままの能力では、再就職もおぼつかず、なんとか就職できたとしても、使い物にはならないかもしれない、そう思ったのです。それで、どうせ再就職先も見つからないなら、留学して新たな道を見つけようとそう考えたのです。
あまり普段は話さない親に、留学の話を切り出すのは非情に辛い思いでした。でも、自分の将来を考えたら、そんなことも言っていられないと思い、親に相談したのです。200万からの金です。右から左に出るはずもありません。それでも、二つ返事で(借用書付きでしたが)出してくれたときは、多少なりとも感謝の気持ちがわきました。
さて、金の工面が出来たところでいよいよ、手続きです。
この続きは、次の回で。
劉白雨 2010年03月08日
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