【網友超級商店】もうゆうちょうきゅうしょうてんのぱんだ

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【倒福】「福がひっくりかえる」と「福が至る」と言う意味の言葉が同じ音で、掛詞になっていて、このように「福」の字かさかさまになっている。

★中国諮詢 中国留学体験談

第二回 「初の中国珍道中」

  留学時代の話を始める前に、もう一つお話をしておきたいと思います。今度は中国語初体験ではなく、中国初体験の話です。中国に憧れていた僕も、いよいよ実際に中国へ行くチャンスが巡ってきました。それでは、中国旅行記初体験の巻です。

  それは、大学二年の冬でした。学友四人が集まり、A君の意見で計画立案が行われました。北京、上海と観光することで、全員の意見が一致し、詳細の計画を練るだけとなりました。ところが、詳細を練る段になって、言い出しっぺのA君が、費用か時間かの問題で、キャンセルとなり、結局B君が計画実行の中心人物となり、僕ら3人だけで行くことになりました。

  渡航方法は、鑑真号と言う横浜港から出ているフェリーです。三泊四日の船旅はかなりきついものがありましたが、それでも夜は満天の星を見て、昼間は遠くに見える陸地を見ながら、船旅の旅情に浸り、何とか乗り切って、やっとの思いで中国へと向かったのです。船内には娯楽施設というものは殆ど無く、申し訳程度のTVゲームとピンボール台、それに食堂兼バーになっているホールが有るぐらいです。僕らは船底の三等船室に雑魚寝状態。一緒になった旅仲間と話をして暇をつぶす位しか楽しみは有りませんでした。

  さて、やっとの思いで中国に入国した直後、問題が発生したのです。着いた途端にB君が腹痛と発熱を訴え、その日はホテルで休息、二日目に帰国用の航空チケット購入に駆け回り、三日目帰国と言うとんでもない事になってしまいました。

  当然、着いた初日は、食べるものを買うことも、レストランに入ることも、どうやって良いか分からず、日本とのシステムの違いにオロオロするばかりで、ただ上海の街をぶらぶらと当てもなく彷徨うのが精一杯でした。 兎に角、店に入っても「粮票」(所謂穀物配給券)というのがないと、パン一つ米一粒すら買うことができず、また、食堂は朝、昼、晩の食事時間のみしか営業しておらず、グウグウなる腹をどうしたものかと途方に暮れたほどです。

  それでも何とか、病気のB君には、食物らしいものを差し入れ、元気になってもらおうとしたが、それも無駄でした。後で分かったことですが、彼はB型肝炎にかかっていたらしく、帰国後、病院に入院してたというから相当酷かったのでしょう。
  ま、兎に角、二日目にふらふらの状態の彼を、連れ回し、翌日発の成田行きチケットを購入し、三日目の早朝、彼を無事空港まで何とか送り届けると、今度は自分たち二人しかいないことに気づき、更に途方に暮れる始末。

  さて、どうするか、と言うことになるのですが、元々の計画立案者A君がドタキャン、それを煮詰めたB君がリタイアとなると、ただついていくだけのつもりだった、僕ら二人は完全に茫然自失となってしまったのです。

  それでも、何とか、市内観光をと言うことで、取り敢えず廻りました。ほんとに取り敢えず。どこに行ったのかも、何を目的で歩いたのかも、全く分からず、ただ、当てもなくふらふらと街の中を彷徨い歩いたと言うのが正しいかもしれません。食料の調達方法も、上記の「粮票」のことが判明したぐらいで、何の進展もなく、苦労したことに変わりはなかったのです。

  兎にも角にも、店の人たちが話す中国語があまり聞き取れず、上海語のためか僕らの能力がなかったのかは、定かではありませんが、そんなこんなで、上海の町での日々がドンドン過ぎていくことになったのです。

  それでも、当初予定していた通り、北京に移動する計画を実行するべく、列車の切符を買いに走りますが、駅で買えるはずの切符が購入できない。つまり売っている場所が分からないのです。兎に角そこら辺の中国人をとっ捕まえては、どこで買ったらいいのか聞きまくったのは覚えていますが、まったく埒が明かなかったのも覚えています。結局街中の旅行会社を見つけて購入し、何とか北京行きの準備は整うことになりました。

  さて、初の中国国内列車移動です。ま、兎に角何でも初体験ではあるのですが。

  中国国内で初の列車の旅ですが、まったく予備知識がないまま、乗り込むことになりました。ただし、雑貨屋で購入しておいたステンレスカップがこのとき大活躍するとは予想だにしなかったのですが。

  取り敢えず、北京への出発当日、映像で見たことのある人は分かると思いますが、あの人の波を初体験することになり、実際恐怖感が湧き起こりました。日本のラッシュとは訳が違い、人の波に、文字通りもみくちゃにされるのです。それも遠慮会釈なしにです。それでも、なんとか待合室に辿り着き、一休み。しかし、ここでも中国人パワーに圧倒されることになったのです。 

  兎に角彼らは、食べる、喋る何でもありです。駅員に怒鳴り散らされても、懲りない。と言うか駅員が怒鳴り散らしていること自体あり得ないのですが。彼らにとっては蛙の面に…で、果物、種、飴、その他諸々のお菓子、瓶に入ったお茶と、次から次と出てくる出てくる。僕らもお裾分けをいただけるぐらいで、どこに持ってるんだと思うぐらい出てくるのです。それから、外国人が珍しいのか、僕らが日本人だと分かると、貢ぎ物をくれる者やら、話しかけてくるものやら、まるで有名人扱いでした。

  さて、いよいよ乗車です。待合室からホームに降りるときに、改札口が有るのですが、 此処を我先にと、自分の身体の何倍もある荷物を持った人々が殺到する為、物凄い争いが繰り広げられるのです。這々の体で列車に辿り着くと、列車の入口で車掌さんに切符を取り上げられました。えっと思っていると、コレクターブックの様な物に、一つ一つ丁寧にしまっていたのです。降りるときに返すからと言われ、何でこんな事をするのか聞いたら、案の定無くす人が多いからと言う答えがそのまま返ってきました。

  僕らが乗ったのは、「硬卧」(硬臥)と呼ばれる、2等寝台車でした。車内に入っていくと、三段式の簡易ベッドがあり、お湯の入ったポットと毛布が貸し出されるのです。僕らも自分の場所を確保すると、車内探索を始めました。

  洗面所やら給湯室、他の車両などを見て回り、好奇心を満たしてやりました。洗面所の構造は、特に日本の列車と変わりないですが、給湯室には驚きです。自分の背丈以上もある、ものすごく大きなボイラーが置いてあり、熱い蒸気がものすごい勢いで吹いているのです。下の方に小さなコックが付いていて、それをひねると熱いお湯が出てくる仕組みになっていて、みんなそこに並んで次々とお湯をくんでいくのです。

  自分達のベッドに戻ると、既に中国人の間では小宴会が始まっており、ビールやら見た事もないお酒やらの瓶がそこここに空いていました。そして彼らは、僕らを日本人と知るや、飲め、食えといろんな物が差し出され、此処でも人気者です。日本の事や、給料の事、生活一般の話や、物価の話など彼らの興味は尽きず、つたない僕らの中国語にも関係なく、ひたすら質問攻めでした。

  それと、乗車前に買ったステンレスのコップは、お茶を飲む時、インスタントラーメンを食べる時、何をする時でも役に立ったのです。このコップがなければ、また列車の中で困り果てる事になりました。

  そんなこんなで、一泊二日の列車の移動は何とか無事終了し、待望の北京到着です。列車を降りて地下道を潜ると、すぐに出口です。此処は入口とは違いすんなりと表に出ました。駅を出ると駅前ターミナルは、人、人、人、、、人だらけです。兎に角身動きがとれない程の人が、そこかしこに大きな荷物を持って座っているのです。列車を待っているのか、何なのかよく分かりませんが、物凄い人数に圧倒されてしまいました。さすが人口最多国の首都です。

  しかし、そんな事にめげていてもしょうがありません。兎に角宿探しです。ですが、某黄色い表紙の旅行ガイドブックを頼りに宿を探した一番安い宿は、僕たちが方向音痴に陥ったため、目的の安い宿とは逆方向に歩いていたらしく、さらにその宿は休業中だとかでちょっと高めの宿となってしまったのです。日本では方向音痴に陥ったことのない私ですら、縮尺の乗っていない市内地図での距離感覚と実際の距離感覚が掴めず、歩けると思った距離が実は相当遠かったりして、始めて方向音痴の苦しみを味わったのです。

  北京到着初日からくたくたになってしまいましたが、それでもなんとか泊まるところを確保したのですが、この宿の場所が悪く、後々後悔することになったのです。場所は、北京の南部で、北京南駅に近く、市内中心部までバスで三十分か一時間ぐらいあるところ。観光地から相当離れていたのです。

  まったく計画性のなかった僕らは、この北京でもどうしたものか途方に暮れました。しかし、取り敢えず、長城だけは行かねばと思い、朝早起きして、東直門に向かったのです。しかし、無情にも長城行きのバスはすべて行った後。今度は西直門の北京北駅に行くが、当然列車もない。これで、結局長城行きはおじゃん。 仕方がないので、今度は頤和園に向かったのです。ここでもついていない僕らは災難に。

  僕自身は被害を被らなかったのですが、もう一人の彼が被りました。頤和園にある昆明湖は、最近、冬場は氷を張ってスケートが出来るようにしているようですが、その当時は湖底に降りることができました。中国人たちに見習って、僕らも湖底に降りることにしました。湖底から眺める万寿山はまた違った迫力があり、今となっては見ることのできない雰囲気を味わうことができたのです。しかし、さらにもう一人の彼は決して味わうことのない屈辱と艱難を味わったのです。

  実は、その湖底に一カ所大きく氷の張ってあるところがあり、中国人が集まって覗き込んでいたのです。僕と彼も一緒になって覗き込もうとしたその瞬間、彼はその氷を割ってさらに深い湖の底へと落ちたのです。咄嗟になにが起こったのかは分かりませんでしたが、次の瞬間中国人が集まって、大騒ぎを始め僕は彼をなんとか助け出したのです。彼の下半身は氷点下の中でずぶ濡れになり、ブルブル震える彼をどうしたものか途方に暮れました。

  しかし、折角来た、なんとか辿り着いた頤和園です。観光せずにこのまま帰るのは、何かもったいない気がして、僕は非情にも「観光してから行こう」という死刑宣告にも似た台詞を彼に向けたのです。彼は渋々ながらも、同意し、寒空の中を震えながら観光する羽目になったのです。しかし、あまり長居は可哀相だと思い、早々に頤和園を引き上げ、町の中心部へ戻り、取り敢えず、着替えを購入することにしたのです。

  バスに乗って、中心部に向かっている最中に、彼はもう良くなったから、着替えを買いに行くのは良いと言いだし、結局着替えは買わず、そのまま町の中心部、すなわち天安門広場や、王府井を見て回りました。天安門では、1989年6月4日発生した天安門事件の記憶も新しい為、厳重な警備がなされ、銃を持った軍隊が隊列を組んで警備に当たっていました。しかし、その広さたるや、テレビで見るのとでは段違いで、感動を覚えた物です。この広場に立って、ホントに中国に来たんだと言う感慨に浸れた気がしました。

  そうこうしているうちに、折良く屋台の時間になったので、王府井で屋台を食べ歩きしました。  

  そこで、驚いた事に、単独中国に乗り込んできた、学友にばったり出会い、彼の珍道中を聞かされ、まだ僕らの方がましだったと言うことに気付いたのです。

  彼の話で、いまだに印象に残っているのは、彼のバックが中国人によってずたずたにされたと言うことです。いきさつは忘れましたが、そんなことをする中国人もいるのかと思い、僕らが出会った中国人はいい人たちが多くて良かったとホッとしたものです。

  北京での日程も差し迫ったものになっていたので、観光もそこそこに、今度は帰りの切符の手配に苦労する羽目になったのです。しかも、上海の時と同じように、切符を買う場所が駅にないのです。駅の入口には改札があり、駅の構内にはいることすらできないのです。後で分かったのですが、パスポートを見せれば中に入れたのですが。当時はそんなことすら分からないほどだったのです。そして、上海行きの切符の購入に奔走し、相当な距離を歩く羽目になったのです。

  丸一日かかって購入した切符を手に、宿に戻り、結局北京での観光もあまりできず、上海へと戻ることになったのです。

  上海へ戻ると、今度は、まずフェリーのチケット購入に奔走し、お土産の購入もしました。

  お土産の購入をするときに、あるお店のおばちゃんが、日本語を使ったのをきっかけに、僕らは強引に日本語で買い物。そうしたら、今まで、僕らを冷たくあしらっていた店員たちは、急に態度が優しくなり、中国語を使う疲労感から解放されたのです。

  そんなこんなで、無計画だった中国旅行もなんとか終わり、手に一杯の土産物を抱え、いよいよ日本へ帰国と言うことになりました。

  この帰りのフェリーの中では、旅行の強者たちが大勢居て、僕らを圧倒させたのです。中には、一年半ぶりに日本に帰るという人も居て、船内で流れていた、テレフォンショッピングの消費税に驚いていました。彼の身分証明書が4、5枚有って、すべて雰囲気が違い、まるで別人のようだったのは更に驚きでした。そんな、楽しい船旅もなんとか終え、無事に日本にたどり着いたのです。

  日本に着いたときに、最初に思ったのは、言葉の通じるうれしさと、どこに行くにも便利だと言うこと、それともう一ついつでも食事ができることは、この上ないうれしさでした。

劉白雨 2010年03月05日

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